『セラフィーヌの庭』

 いかに日頃「余計なセリフ」をたくさん耳にしているか、思い知らされた。
 この映画を観て、まず思ったのはそこだ。必要最低限のセリフで、最大限に登場人物の心の中を照らしだしている。観る者に伝えてくる。
 物語の冒頭、ほとんど主人公であるセラフィーヌは言葉を発しない。けれど彼女が豊かに自然と対話し、川の水や、木の肌を、心で感じているのが伝わってくる。彼女の話し相手であるフランスの田舎風景も、また美しく。
 彼女の名前はセラフィーヌ・ルイ(1864-1942)。私は全然知らなかったが、アンリ・ルソーなども含まれるという「素朴派」(naïve art)の画家で、まったく正規の絵画教育を受けず、独学で絵を描き始めたひとなのだという。
 映画の中の彼女は、フツーの小太りのオバさんだ。ときは1900年代初頭、家政婦をしていて働きづめ。お世辞にも美人とはいえない。

 そんな彼女が仕事を終えた途端、野原に行き、陽光を浴びる。そして大きな木に突然、よいしょっ、とよじ登る。枝に腰を落ち着けて、一息ついたセラフィーヌの表情が実にいい。
 先ほど家政婦をしていたときとは別人のように、リラックスした表情。動物が野に解き放たれたようだった。何か大きなものと溶け合っているかのような「くつろぎ」がスクリーンに満ちる。
 セリフや説明は皆無なのに彼女がすごくよく、わかる。まるで彼女に実際会ったかのように。自然児がそのまま大人になったかのような、セラフィーヌ。


彼女の絵の世界

 彼女の絵、あなたはどう思うだろうか。
 セラフィーヌが作中描くのは、花や草木ばかり。よくある静物画とはまったく違う世界。すごいエネルギーに満ちてとても躍動的なんだけど、同時にとても静的でもある。整列的で、均衡がとれた世界。海の中の小魚の大きな群れのよう。曼荼羅のようにも思える。
 彼女は唯一の自由時間である夜に、一心不乱に描き続ける。何かに突き動かされるように。
 優れた絵画というのは皆、誰かが「描いた」というより、描かれる前からそこに存在したかのように、私には思われる。まったくこの世にはない創造的な形、フォルムなのに、見慣れた夕焼けや、バラのつぼみや、鳥の羽ばたきのような、私たちが普段目にするものの美と同質のものを自然と感じさせる。
 もちろん、美術館にいって彼女の絵を実際観たわけじゃない。でも、この映画のセラフィーヌの絵でさえも、そんなことを感じさせる。そういう彼女の絵画世界が伝わってくる!


画商との出会い

 そして現れるのが、画商ヴィルヘルム・ウーデ。美術に詳しい方ならピンと来るかもしれない。アンリ・ルソーの発見者にして、20世紀最大の画商といわれるダニエル=ヘンリー・カーンワイラーにピカソを紹介したというその人。なんと彼が、セラフィーヌが家政婦をしている家に間借りにやってくるのだ。
「この絵は誰が描いたんですか」
 フツーのシンデレラ・ストーリーならここからトントン拍子に……となるところだが、第一次世界大戦が勃発し、話はそう簡単にいかない。随分と長いときを経て二人は再会する。そのとき、セラフィーヌの絵は格段な進歩を遂げていた。やがて彼女の絵は注目を集め、幸福な画家人生を迎えるかと思いきや……。

「41歳にして天啓を受け、筆を取った」と、伝えられる彼女。
 これ、くだけていえば「お告げさま」というか、「お憑きさま」というか。そういうひとだった、とこの映画の監督は解釈しているんですね。
 私の絵は天使が描かせている、もうすぐ天使が私の許へやってくる、私は天使と結婚する……(セラフィーヌは「彼女なりに」信心深いキリスト教徒として描かれている)。なんでもない普通の家政婦だった頃は、「ちょっと変わった絵の好きなおばさん」だった人が、次第に変わってゆく。絵が認められるにしたがって、自分の信ずるところを堂々と口に出すようになる。お金が入るから、自分が「必要」と思う行動にどんどん出てしまう。
 優れた画商であるウーデは、芸術家にしばしば見られるエキセントリックな「そういう部分」も含めて、セラフィーヌを深く理解していた。その才を応援したいと思った。
 しかしときは世界恐慌、彼女を支える財力にも翳りが出てくる。さらに明らかにセラフィーヌの行動は常軌を逸してきて、そして―――。

もう吹かない「風」

 はじめてセラフィーヌとウーデが会った頃。彼はあることで悩んでいた。そんな彼に、
「悲しいときは、大きな木に触るといいですよ。鳥や木と話すと、悲しみが消える」
 そう語りかけたセラフィーヌ。自然児だったセラフィーヌ。彼女はこの、言いようによってはクサくなる台詞を、なんとサラリと発したことだろう。まるで、窓をあけて風がひと吹きしたかのような自然さで。
 その「風」に、ウーデは惹かれた。そして同質の「風」を彼女の絵から感じた。しかしその風はもう、セラフィーヌからは吹いてこない。

 ラストシーンにも強く心を打たれる。
 ウーデがする最後の「支援」。ここで、タイトルがきいてくる(原題はジャスト“Seraphine”なんだが、なかなかの名邦題だと思う)。
 もう会話もままならない彼女が、大きな木を見つけて歩いてゆく。ただ無言で歩んでゆく。小さなシルエットになるまで静かにセラフィーヌを追うカメラ。傷ついた動物が泉に向かって最後の力を振り絞って歩んでいく様にも思える。しかし同時に私には、貴婦人が気持ちのいい場所を見つけ、さながらバカンスを楽しむような優雅な風情も感じられてならなかった。
 彼女の心のうちには今、何があるのだろう。
 そんなことを考えるうち、スクリーンは暗闇になって、クレジットが流れ出した。



■タイトル: 『セラフィーヌの庭』 公式HPは→こちら
■公開表記:8月7日(土)、岩波ホールほか全国順次公開
配給:アルシネテラン
© TS Productions/France 3 Cinéma/Climax Films/RTBF 2008


○付記
 なんだかかたっ苦しい映画に思うかもしれないが、素敵にユーモアに彩られた作品でもあります。細かいことだけど、セラフィーヌが食べものをもらうシーンがあるんですね。すぐさま彼女はキリストの肖像画だったかにお供えするんだけど、パッと変わって画商のウーデがピアノを弾いているシーンになる。その曲がシューマンの『謝肉祭』。これ多分かけてるね。