『ハーパー・リーガン』

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買ってきたばかりのトランプ
 第一幕を観ながら、そんなイメージが頭に浮かんでいた。
 当然、買いたてのトランプは切れていない。1、2、3、4、5……と、きれいに数字が並んでいる。
 俳優が発してくるセリフ、それに応酬する相手役のセリフとリアクション。なんと整然ときれいに「並んで」いたことか。台本に整然とセリフが印刷されて並んでいるように、整然ときれいに役者の口から順序よく発せられていくセリフ。
 トランプをはじめようといとき、自分のところに配られているカードが
「ああ、1が来た。2が来た。3が来た。そして4が来たんだな」
 と、分かっているとしたら、どうだろう?


 ババぬきをしているときの、次は何の数字が自分の手元に来るかという楽しみとドキドキ。そしてこの「演劇というババぬき」は次にひょっとしたら「81」「6005」もしくは「ゼロ」なんてカードを引いてしまうかもしれない、何が起こるか分からない面白さと、怖さ。クドクド書いても仕方ない。とにかく「ドラマ」が板の上で起こっていなかった。

 ガーーーッカリしていたんだけれども、第二幕でいきなりそんな気持ち、払拭されました。うーん、嬉しかったなあ!



○簡単なあらすじ

 ハーパー・リーガンとは小林聡美演じる主人公の名前。
 40代前半で、夫・娘の三人家族。どういうわけか家計は彼女の肩にのしかかっている。娘は成績優秀、夫も一見いいひとそう。だが互いの間に「遠慮の壁」が厳然とあるのがすぐ見てとれる。子供にすぐ「ごめんなさい」と口にしてしまうような母親のハーパー。そして会社の理不尽な雇い主に自分の主張もできないハーパー。彼女の心は箱詰めになっているかのようで、ひどく窮屈そうだ(実際、長方体のセットが廻り舞台になって「景」が変わっていく)。



木野花×小林聡美、その鮮やかさ!

 ある日、田舎の父の様態が急変したことで、ハーパーは「日常」に反抗する。ささやかなレジスタンスを起こしていく。
 そのうちのひとつ、長らく不和だった母親との対話が非常に面白かった。スリリングだった。母を演じるのは木野花
「おーっ、今いい芝居観せてもらってる。まさに今『ドラマ』観てるぞーっ!」
 そんな演劇的昂揚感、堪能させてもらいました。

 私がこのシーンに興奮したのは、「台本がない」感じがしたからだ。感じ、じゃないな。「予定調和」というものを全然感じなかった。 
 芝居というのは当然のことだが稽古がある。役者が台本を家で覚えて、稽古して、リハと本番でさらにセリフを繰り返して……相手がこのセリフをいったら私がこれを言う。そういう演劇的「予定」と「実行」の調和応酬がこのシーンでは見事になかったと思う。



○「役柄間の年月」を感じさせる二人の芝居

 けっこうな時間を共にした相手と会話してると、「変なボタン」押されちゃうときってありませんか。相手からしたら何気ない「A」という言葉でも、受け手の私にしたらその「A」がもう何百回も心に降り積もっているような。
 実際、明日のチェックでもいいような書類。だから上司は「明日見とく」と答える。その上司は無意識に「明日見とく」といっている。それが口ぐせにもなっていることを気づいていない。でもこちらは、「また明日かよ」という気持ちがたまっていて、別に明日で確かに構わないのに、「なんで明日なんだよ!」とキレるボタンが押されてしまうような、そんな瞬間。うーん……うまく例えられずくやしいな。

 ともかく、そういう「役柄間の年月」がきちんとある芝居だった。役者がそういう年月をしっかり感じさせると、観る者に「何が起こるかわからない」怖さを与える。さらにある種のヤジウマ的好奇心をも煽る。これは劇場というものに対して観客が期待する大きな要素だと思う。



山崎一、好演

 この景の対比になるんだろうけれど、山崎一演じる男とハーパーの場面も良かった。こちらはまったくの今日初めて会ったひと。長年の関係だからこそぶちまけられること。初対面だからこそぶちまけられること。
 この男とは、(嫌いな言葉だが)「出会い系サイト」で知り合ったんですね。ハーパーは彼にいささか執拗に子供はいるのか、奥さんは、奥さんはどんな人と尋ねる。相手に対して無意識的に「自分だけじゃない。このひとだって家庭があるのよね。『みんな』してることなのよね」と確かめ続けないとおれない。そんなハーパーの心が、あとから段々と、もの悲しく思えてくる。
 この山崎一演じる男が、また「優しい男」だった。この「優しさ」は日常生活においては多分……決して物事を快方に向かわせるようなそれではないと思う。ことに家庭では。
「何でも受け止めるよ」「私は理解ある男だ」というような、自分は傷つかない系の、流れに身を任せるタイプの男。けれど、このときのハーパーにはベストの相手だったのではないだろうか。
 山崎一は男の上半身と下半身の別人格ぶりをとても洗練されたニュアンスで表出していた。表現じゃなく、表出ね。そういう感じの芝居が出来る人は、貴重だと思う。
(余談ですが、ここでのダンスのシーンは演出の長塚圭史氏……ちょいテレがあるのではないだろうか)



小林聡美の舞台演技

 最後に、小林聡美のことを。
 彼女が映画やドラマでみせるような表情のアップ。思わずカメラが抜きたくなってしまうような、独得のいい表情。ブーたれた不機嫌な表情だったり、「何それー」と不思議がっているような表情だったり、「やだーそれ面白いー」とニコッとするような、あの顔。
 そういうアップの彼女の「顔」が、いくつかのシーンで心に迫ってきた。映画はカメラが近づくが、舞台はこちらの心が役者に近づく。そういう求心力が舞台でも発揮されていた。それを彼女らしく、何の気負いもなくやっているように見せる。また、さらには横顔や髪の毛で顔がよく見えない場面においても、私の心には正面からの彼女の表情が浮かんだ。イメージさせたのだ!
 それは舞台演技として、かなりの成功だったと思う。

 渋谷・パルコ劇場にて26日まで。

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○蛇足1

 小林聡美は……うーん、やっぱり「永遠の年下」だなあ!
 実にそう思った。だからどうこうじゃないんだけど、このかたは年上の役者と、それも肉親的に絡むと実にいい。いい意味で精神的な「甘え」のある役がとてもハマるんだと思う。それは幅が狭いということではなくて、「これをやらせたら抜群」という役者としての「看板」を持っているということだと思うのだけれど。

○蛇足2

 ナイーブな青年役の間宮祥太朗、彼の存在感がとても光っていた。まだ硬いけれど、イノセントな感じが嘘くさくなく気負いもない(ようにみえた)。最近の若い俳優は「俺、いま演技してます!全身全霊っす!」みたいな頑張ってます、そして「俺、役者してる! 俺、生きてる!」みたいな芝居をする子がチラホラいて観ていて疲れる。彼はまったく違う感じ。

○余談1

 あろうことか……私、劇場間違えちゃったんですよ。
 はぁ……何度こんなことを繰り返すのか。開演20分前に着いたのが見事にシアター・コクーン。「ああ、まだ時間あるからタバコ吸うか」なんて喫煙所で時間潰してたりして。
 チケットを某氏にとってもらったので、受付にいって「白央で一枚あるはずなんですが」と訊くと怪訝な顔。ない。ないはずがないと思いきや、ふと顔を上げると全然違うポスターが……。岩松了さんの芝居のやつね。即行で「ああもういいです」と言ってその場を去り一路パルコ劇場へ。近くて本当によかった……。しかし私、かたくなに「コクーン、全然ハーパー・リーガンのポスター貼らないんだなあ」なんて思ってたりして。思い込みって怖い。
 一応書いておきますが、仕事ではそんなことありませんからね。自分の性格は分かっているので、人が絡むときは何度も確認するクセはつけております。ほんとだってば。