三宅坂にて・2

20日のつづき)

 国立劇場の隣にあるグランドアーク半蔵門に移動して何時間経った頃だろう。
「そのうち道も空くだろう」と、呑気な気持ちで私たち一向はお茶をしていたが、次第に焦り始めていた。さる舞踊家の先生とそのお弟子さんふたり、私の4人。公衆電話でタクシー会社に電話しても「一台も空きがない」と言われていた頃はまだよかった。携帯はまったくつながらなくなって、電話がかけられない。フロントに聞いても車は呼べません、と。家族へメールしても届いているのか分からない。 
「高を括る」
 この表現を人生で使う日が来るとは思わなかった。ほんとうに、高を括っていた。事態は好転すると、なんて鷹揚に構えていたことだろう。次第に不安がみんなの胸に広がっていった。

 フロントには行き場のなくなった人が溢れていた。無言のそのひとたちの不安が相乗効果でどんどん大きくなって、吹き抜けのホールに満ち溢れているようだった。
 大きなテレビをみんなが囲んでいる。画面にはおそろしい映像がひっきりなしに流されていた。津波、巨大な渦を描く海、そして私は、両親の住む八戸も海岸部が津波にやられたことを知った。

 両親にメールを送っても何の返事もない。
 でも今はどうしようもないし、先生をまずどうにかお帰ししなければならない。そう割り切るより他になかった。
「今日はもうどこかのホテルで泊まるしかないかも」
 そう思ったのは16時か17時ぐらいだったろうか。近所に福岡会館という小さなホテルがあり、そこはあまり知られていないからまだ部屋が取れるかも、とひとりが言った。これまた甘い考えだったことをすぐ知らされることになるんだが。

 私と姉弟子のひとりが先に行って様子をみることになり、歩いて5分ぐらいの福岡会館に向かった。三宅坂は車で埋まっていて殆ど動いていなかった。その逆に歩道ではすごい数の人が歩いている。冷たい風が吹きすさんでいた。
 着物姿にショールで草履の姉弟子だけが非日常的だった。そのかたは十条に住まわれていて、この草履に着物姿でもし歩いて帰らざるを得なくなったら一体……なんて思うと、途方に暮れた。

 福岡会館は当然満室だった。
 私たちのあとにもひっきりなしに同じ質問をする人が訪れ、また電話口では受付の方が申し訳なさそうに「満室でございまして」と繰り返していた。あとでフロントの方に聞いたら、地震後10分もせずに満室になったという。目端の聞く人というのは多いものだ。

 ここのレストランは営業を続けていた。ビルのガスが止まって調理が出来ない、ということでグランドアーク半蔵門は全館のレストランが営業を見合わせる、と聞いたばかりだった。私たち一向は福岡会館に移動して、取りあえず何か食べよう、ということになった。

 そこは和食と中華が一緒になった食堂だったが、このとき食べた五目焼きそばほど、味気ないというか、味がなく感じられたこともない。喉を通らない、という感覚を初めて体験した。合間合間に何度も公衆電話から親の携帯と家の電話にかけるのだけれど、すべてつながらず、たまに家にかかって瞬間期待するのだけれど、誰も出ない。
 悪いことばかりが頭に浮かぶ。母親はそのとき心臓を悪くして入院していた。病院は無事だと思うけれど……。父のほうが心配に思えた。家で何か落ちてきて、ぶつかって倒れているのではないか。そんな情景が浮かんで仕方ない。家の電話が鳴るのに留守電にならないのも不安を募らせた。

 食道の隣のテーブルでは、埼玉の奥のほうから同窓会で福岡会館にやってきた、という60代ぐらいの男性4人が酒をやっていた。JRが今日いっぱいはひとまず運休すると発表があったばかりで、さてどうすると赤ら顔で冗談を言いながら、困っていた。たくさん食べて、たくさん飲んで。さっきの地震がなかったかのような人たちだった。そこだけが14時のあの地震前のようで、なんとも不思議な気持ちになった。それが別に癇に障ったわけではない。のどかないい人たちだった。ただ、うらやましかった。
 あの人達はどうやって帰っただろうか。

 私たちはロビーに移って知らない人たちと一緒にテレビを見ていた。狭いロビーはいっぱいだった。
 気仙沼が燃えていた。小さい頃に何度か行った町だ。父は塩竈に務めていたこともあった。幼い頃に住んだ東北がこわれていくようで、なんともいえない気持ちになった。
 けれど、こういうときは不思議なもので、私が東北育ちで、父たちと連絡が取れないと知っている人が周囲にいるほうがいいんだな、と思った。心配されているのが分かると、私の中の不安がそちらに、なんというか吸い取られるような感じだった。「このひとたまらないんだろうな、つらいだろうな」と思われている感じが、私をなぜか悲嘆の精神に染まってしまうのを防ぐような、そうさせないような役割があることを知った。

 19時頃、姉弟子のお子さんが車で迎えに来てくれることになり、ようやく一筋光明が見えた思いになったが、いつ到着できることか。もう座って時間が経つのを待つしかない。
 それから22時ごろ一度表に出たら、タクシーの空車が目の前にある! 驚いて運転手さんに訊けば
「乗せてもいいけど、3時間ここらから動いてないんですよ。それでもよければ」
 そう言われ、すみませんといって離れた。
 
 3時間半ぐらいかかって、池袋から半蔵門に息子さんの車がたどりついて、ようやく先生を御宅に連れてゆける算段がついた。そのとき半蔵門線が復旧していることが分かったので、私はそこで放免していただいた。
 ギュウギュウの線の中で、私は何を考えていたのか、もう思い出せない。

 池尻で降りて246を歩く。
「トイレお気軽に使ってください」
「あったまっていってください」
 通りのコンビニや飲食店の店頭には、そんなメッセージが書かれた紙が貼られていた。寒い夜に、ほのかな善意がその紙の上であたたかさを放っているようで、少し泣けた。

 家の中は信じられないぐらい無事だった。棚の上に積みっ放しの文庫本が崩れていたきりで、そりゃあこれは仕方ない、という程度のことしか起こっていなかった。

 この日から2日経って、ようやく父親の声が聞けた。私は昼間、スーパーに買い物に行っていた。レジ待ちの間に電話してみたら、掛かった。どうかつながりますようにと念をこめていたら、呑気な父の声が聞こえた。嬉しかった。
「だぁーいじょぉ〜ぶだぁ〜」
 本当にそう言った。親父のいつもの調子で、地震が彼に何もショックを与えていないかのように振舞ってくれた。家だったら泣いていたかもしれないが、そのときはさすがに気持ちをごまかした。母も無事と聞いた。
 回線がただでさえ混みあっていることを思い、早々に電話を切った。私はレジ待ちの列を離れすぐまた売り場に戻った。というのは、ホントに私は即物的というか単純だと思うのだけれど、このとき心から
「ああ、お腹が空いた……!」
 そう思ったのだった。
 一気にせきを切って食欲が押し寄せてきたかのようだった。そしてまた不思議なんだが、既製品や肉や魚を買ったのではなく、トリガラとタマネギを買おうと自然手が動いた。帰ってガラスープを私は取り出した。コトコトコトコトそれらを煮つつ、ようやく心に「今は何々が食べたい」という気持ちが復活してきたのを感じていた。

 滅裂だけれど、とりあえず、11日のことを書けた。ようやく書けた。今は4月20日。私があの日食べたのは、グランドアーク半蔵門の1階カフェのケーキ、そして福岡会館の五目焼きそばだった。どんな見た目で、香りで、食感だったか、全然覚えていない。ただ咀嚼して食道に下ろしただけ、という感じ。
「そんな贅沢な。その日にものを食べられなかった方だって……」うんぬん、というひとりツッコミを、この日からしばらくすることになるのだけれど。
 それが詮無いとは思いつつも。