坂東玉三郎 失望の特別舞踊公演

おつかれさまでした


 即断だった。
 玉三郎が八千代座百年の記念公演として『京鹿子娘道成寺』を出す。そう聞いて、チケット購入を即決した。
 変な予感がしたのだ。
「これが、最後かもしれない」


 玉三郎の『道成寺』が「歌舞伎座さよなら公演」、その最終月(来年四月)の目玉になるらしい。そんな噂が早くから聞かれていた。大和屋自身もHPで「お目にかけれそうです」と随分早くに書いていらした。そこへきて、八千代座での『道成寺』の知らせ。
 うーん…………。
 今回、八千代座での公演は計12日間。これで体の具合をみて、四月どうするかを決めるんじゃないだろうか。
 「ピン」と来たというか、大和屋がそういう計算をしていそうな気がして、衝動的にチケットを取ってしまった。あのパーフェクショニストの玉三郎のこと、「最後は道成寺をかけたい……でも無様なものは……」そう考え、この八千代座での結果を鑑みて、四月を決めるように思えてならなかった。


いや、やるでしょう。今の歌舞伎座の大ラスで、なおかつご本人の誕生月、そして還暦祝いですからね。これを道成寺で飾らないわけがない
 ある邦楽関係者は自信をもってこういう。
 でもなあ。1月に中村勘三郎が同じ『道成寺』を出して、3ヵ月後にまた、ってあるだろうか? 
 どうなりますことか。
 興味津々、そして大いなる期待をもって鑑賞した坂東玉三郎人生17回目の『京鹿子娘道成寺』公演ですが……簡単に書く。失望した。私は「肩透かし」な気持ちで、八千代座をあとにした。


1:道行
 満席ギュウギュウの八千代座。
「全公演完売でございます!」 
 尋ねると、嬉しそうに事務局のおじさんが応える。玉三郎による口上があったが、一切を省略!

 チャリンと開いた揚幕から玉三郎の登場。


 驚いた。
 八千代座というのはそれはそれは小さな劇場なので、手に取るように役者の全てが伝わってくる。観られる。
 玉三郎の表情に、驚いた。眉間にクッと皺が寄ったキツい表情。
 この花道の出は、春の花盛りに心浮き立つような娘らしい微笑み、それでいてどこか魔性のものらしい妖しさをたたえる表情が相場と思っていた。
 緊張しているのか―――! おりしも初日、あの大和屋が緊張している、というのに私も緊張した。踊りになめらかさがない。「上がっている」とき特有の体の硬直が舞踊から感じられる。けれどそれは何か真摯なものを感じさせて、観ていて嫌なものではなかった。


2:花のほかには松ばかり

 問答があって、烏帽子に赤の衣装に変わるところ。
 ここが……実に素晴らしかった! 玉三郎入魂の踊り、芸への誠意あふれる姿勢を感じて、私はオーバーじゃなく、泣きそうになった。心震えた。
 このとき、八千代座の全員が玉三郎の一挙手一投足に注目していた。観客全員がもてる集中力のすべてを、ひとりの役者に傾けていた。注視していた。
 こんな幸せなことは滅多に起きるものではない。それこそ能がかりのところなど、劇場の細部にわたるまでの全てが真空になったかのように静かで、時が止まったような錯覚を覚えた。久しぶりの感触。
「鐘に恨みは数々ござる」からもそのいい意味での緊張感は続き、「これは凄いことになるかもしれない」と私はワクワクに震えたが、手踊りで破綻が生じる。


3:手踊り〜鞠唄

 守若老いたり。
 というと残酷なようだが……単純に若旦那の緊張がうつったのか!? 引き抜き後見をもう何十年もつとめられている坂東守若、この日は随分と手間取っていた。もちろん間は外さないんだけどね。
 そして花びらを集めて鞠にし、しゃがんだまま円を描くように踊るところから、何かが破綻した。今思えば、脚が攣(つ)ったかなにか、具合が悪くなったんじゃないだろうか。珍しく一瞬、間を外したかのように思える。
 鞠唄の見どころのひとつ、しゃがんだ姿勢のままツーッと移動、動きの面白さを見せる振りを随分とカット(劇場寸法のせい?)したのも意外だったが、あの玉三郎が袖の扱い、形の決まり方など、ことごとく「ぞんざい」なのに私は驚かされた。
 細かい「間」に速めのテンポ、その中で数多くの決まり(ポーズとしての美)を見せるパートなんだけれど、そのいくつかを玉三郎は……言葉は悪いが「適当に流している」感じを受けた。チャラチャラ流れる御茶ノ水。あの入魂の「乱拍子」はなんだったのか!?


4:恋の手習い

 花笠はいかにも玉三郎的に「余裕よ」とサラーッと見せて終わり。そして縮緬手ぬぐいを使った恋の踊りに。ここも……集中力に欠けた仕上がりとしかいいようがない。疲れたのォ!? ちょっと玉朗ユンケルもってきて一番高いやつ!
「ふっつり悋気せまいぞと たしなんで みても」
 このあとの一間(ひとま)まで、一番の聴かせどころにして魅せどころ。ここも超アーーーッサリ。「芸の溜息」を大和屋は私につかせてくれない。「恨み恨みてかこち泣き」のところなど、観てるこちらが恨み心頭、もう「?マーク」が脳内にアソウギ・ナユタ・ムリョウタイスウ……気のまったく入っていない恋の手習いだった。踊りの手習いをされたほうがいい。舞台上には花子も、大和屋もいなかった。空虚だった。杵屋直吉の唄を楽しむことに私は専念した。このひと、確かに上手なんだけど、もっと「おかたい」唄のほうが本領だろう。色っぽいものや「俗」の愉しみを聴かせる長唄は向かないように思う。

5:山づくし

 とあるピアニストのエピソードにこんなのがある。
 天才型のピアニストの彼は、そのとき恋愛で非常に煮詰まっていた。さらには国家のとある機関からも目をつけられ、さらには税金のことでも悩み……という時期。
 ある日彼は、難曲・大曲としてしられるラフマニノフのピアノ協奏曲第3番のソリストとしてコンサートに登場。しかし、気がついたら聴衆は大喝采……弾き始めるなり、女に金にトラブルにとまた思い悩むうちに、彼は弾き終えていたのだ!
 小さい頃から体に叩きこんだものは、心ここにあらずとも「パブロフ」として出来てしまう、ということがある。なんというか……そういう踊りだった。
 そうそう、ここで私は驚愕した。玉三郎の右の裾から赤い襦袢がピラーッと垂れて出てしまった。普通縫い止めしてあるのだが、切れてしまったのだろうか。こんなことが玉三郎の舞台で起こり得るとは! 
 衣装方、次の日「天草灘」とかに浮かんでなきゃいいけれど……。冗談はさておき、私はやはり「飛び跳ねる」振りはおかしいと思う。不必要だ。

6:ただ頼め

 踊り自体に特に言うことはないが……衣装がなぁ!? 桜柄が強すぎて地の「青」が立たない。失礼は承知だが、体の線も随分と割り増しに見えてしまう。なおかつ、後(のち)の白への引抜が際立たない。

7:ラスト

「花の姿の乱れ髪」からキッと蛇体を現すことにかけては、やはり随一だと思う。けれどそれで今までのストレスが発散されるわけでもなく。鐘の後ろに入り込むところで気持ちが切れている。踊り云々以前のことだろう。
 そして消し毛氈(もうせん)を使わずぶっかえりの準備。これも八千代座の寸法によるものか? 私のやりきれなさをかき消すように大喝采。カーテンコールが3回もあり、そして手拍子まで起こった。このひとが本当に心からこの喝采を享受しているのだとしたら、もう舞台人としての玉三郎は死んだ。
 熱っぽい、命の燃える舞踊が観られるかと思った私の期待は無残にも散った。
「温泉に入りに来たのだ」そう思い込むことにした。
 誰も本当のことを書けない人に坂東玉三郎はなっている。『演劇界』でも何でも多分絶賛だろう。




八千代座



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