『妻として女として』より


 先日、成瀬巳喜男の晩年の傑作『妻として女として』(1961 東宝)を観た。

 まず、思う。

淡島千景は、軽んじられすぎちゃいないだろうか!?」
 ということだった。いやあ……うまい、うま過ぎる。小津映画や成瀬映画では原節子高峰秀子ばかり評価されているように思う。もちろんご両人も素晴らしいが……淡島千景の凄さを、私は今こそ讃えたい。なーんて偉そうにいってますが、私だって今日まで見逃していたのだ。うーん、師走も暮れにして淡島ブーム。

 まずこの映画でもそうだし、小津安二郎の『早春』(1956年 松竹)でもそうだったが、因循な女を演じさせたら彼女の右に出るものはいないと思う。
 言い方が悪いな。「意地悪な女」を演じさせて、うまい役者はいっぱいいる。それが単なる意地悪じゃなくて、愛憎のはてに絞り出て来たような、やるせない女の「いやらしさ」を表現できる役者はそうそういない。

 その差って、簡単にいうと演技に「品」があるからだと思う。
『妻として女として』の映画の脚本は井出俊郎と松山善三だが、多分女優のセリフは井出俊郎が担当したのだろう。
 これがね、凄いんですよ。いやーなんというか、女の「はらわた」や「魂」から絞りだされたような台詞なんだ。そういった感情を、あざとくなく淡島千景は表現する――それはどんなにむずかしいことだろう。

 ちなみにこの映画は、ひとりの男と本妻、そして妾の物語。妻と愛人が対決するという話。女の積年のうらみ、という感情がテーマのひとつだと思う。淡島千景(本妻)も高峰秀子(妾)も、決してやり過ぎず、過剰な熱演をすることなく、積もり積もった「うらみつらみ」を表現して余すところがない。
 淡島千景というとよく、気のいいコメディエンヌばかりが評価されているが(懐かしの『大番』シリーズとか、小津の『麦秋』とかね)、こういった因循な女も実に素晴らしい。

 これほどの演技力があるひとが、なぜあまり「大名優!」とクローズアップされないのだろう。

 まず最初の理由は、今でもお元気でガンガン舞台にテレビに出てるから、というのがひとつあると思う。原節子高峰秀子も引退して久しい。そういう愛惜の念、みたいなの、日本人好きだからなあ。
 2つ目には、この人の演技って「十出して二引く」ような演技だからだと思う。 やり過ぎない。熱演しない。大芝居も打てるがあえてしない。サラッと滲み出すような演技に終始する。
 また「サブ」がうますぎる、というのもあるのかもしれない。主演者の妻、友人、対決する役などなど……主演を盛り立てつつ、キッチリと自分の役も膨らませ深みを出す。そういったことに本当に長けた人だ。こういう点は原や高峰にはないものだと思う。

 もちろん主演としての器もある方だ。市川崑の『日本橋』(1956年 大映)のお孝などは、新派ファンなど認めない向きもあるようだが、花柳章太郎、そしてそれに続く初代水谷八重子という大権威がいた時代に、よくあれだけ自分なりのお孝像をこしらえたなあ、と私なんかは感心してしまう。

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 ああ、長々と止まらない! 本当に今私は淡島千景という女優の頭のよさ、品のよさ、自在なキャラクターと演技の「押し出し」の自由自在ぶりに感動している。かつて淡島千景は「生きてはみたけれど 小津安二郎伝」(1983年 松竹)という小津安二郎の伝記映画の中で、
「小津作品において俳優は人形浄瑠璃の人形だ」と表現していた。 
「人形として先生の言うとおり動くこと、だけどそれだけじゃいけない。心を人形に入れるのは俳優だから。そこがうまくいったとき、先生はOKを出されるのでしょうね」
 この発言には控えめながら、役者としての自負と自信に満ちていると思う。そしてそれが嫌味じゃない! こういうのを「知的な品性」というのだと思う。


 最近私は彼女の生涯の名演技といわれている 「夫婦善哉」(1955年 東宝)も観たばかり。まだまだ書きたいことはいっくらでもあるのだが……(洋装と和装の着こなしがどちらもおっそろしく上手いこととか、邦楽や邦舞もきっちりこなせる凄さとか)ああ、もうキリがないので今回はこのへんで。

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