十二月日生劇場大歌舞伎

 今、もっとも美しい歌舞伎の女形は、間違いなく尾上菊之助だ。
 このひとの女形の舞台は、見逃したくない。心技体の充実、なにより一握りの舞台役者しか放出しえない、ある種の「きらきらしさ」を持っているひとだから。それはまるで蝶の鱗粉のような、光の残影のような……。

『摂州合邦辻』の玉手御前、女形の大役の一つだが、今年の5月に大阪・松竹座で菊之助が演じ評判をとった。これは観にいけなかった。しかしそれが早くも東京で、しかも通し狂言(1968年以来!)でやると聞いてちょっとビックリ。どうした熱の入れようだろう。
 11日に拝見。以下、ザッと感想メモ。


【序幕】菊之助、「位」があるなあ。これだけでもうたいしたもの。この玉手御前、若いけれど立派な階級のひとなのですね。大名の奥方(生まれ育ちはさほどでもないが、いい家に嫁いだ、という難しいところなんだろうが)。ちょっと格が高すぎるんじゃないかという気もするが、この歳で「片はずし」(そういうクラスの女がする髪型)が似合うなんてたいしたもの。
「腰元たち、みやしろへ」と凄んで決まるところなど、立派で、押し出しがあって。何よりその動きに腰が入っていて安定感がある。なんでもない動きに「位」というものは出る。玉手ってかなりアブノーマルな役どころなんだけど、そういうこともふくめて「毒蛇は急かず」といった妖しさと鷹揚さが滲む序幕の玉手だった。お見事!



【二幕目・高安館の場】 ここでも余裕感漂う菊之助。それに対して、時蔵にもっと先輩役者の大きさがほしい。
 菊之助の玉手をいさめる家老の奥方、という役なんだと思うんだけど、なんか……対等なんだよね。歳も経験も上、という感じがあまり滲まず。
 しかし時蔵、えっらい気合入ってたような。下手(しもて)登場のからして「やるわよ、私!」という闘志マンマン、しかし菊之助の玉手も威厳ムンムン。熱が入れば入るほど、家老奥方としての格と年嵩な感じが削がれて損に思える。打掛の渋い色と芝居の感じが重ならず。要所要所を押さえるようなメリハリのある凄みがほしかった。



【庭先の場】  女形デスマッチ一本勝負。先の菊之助時蔵の立ち回り。ここ、もーーーーーーーっと面白くなると思うんだけどなあ! お互いのイキが合ってない。羽曳野、古武道の心得感がほしいところ。ここでも玉手と互角な感じなんだもの。老練で手ごわい家老の奥方を若い激情が破って男のもとへひた走る…というドラマが不完全燃焼。
 菊之助の花道の引っ込み、傘と片裾を持っての決まりまでの動きが心許なく。しかし菊之助にも苦手なところがあるのか、とホッとするような気持ちになったのも事実。ちょっと出来すぎな感じがつまらなく思えるというか、ソツのなさゆえに「心が引いてしまう」こともあるのだ。
 しっかし、消化しきれてない残念な一場だった。



【万代池の場】 中村梅枝、いいねえ! だから敢えて、思ったことを。
 掘っ立小屋からの「出」、情感としては世捨てとなり病に苦しみ窮乏の果て、という感じ出てるんだけど、腰から腿にかけての線に若さと健康が満ちて、惜しい。そこに「やつれ」を匂わせなくては。別に痩せろ、ってんじゃなくてですね、あの足の見せ方は損だと思う。腿を張らないようにうまく「ぬすんで」登場したらもっといい。腿が張っちゃうんだよね若いからどうしても。健康な肢体がその下に見えてはいけない。着物の着方もあるだろう。
 セリフが良い分、鼻濁音の不出来が何度か耳に障る。「うまくなる人」ってのは欠点が目立つのだ。楽しみ。

 そしてやっぱり…菊五郎の良さを思う。万代池の場、花道引っ込みまでのクライマックスで劇場の「熱」がグーンと上がる。それはすべてこの座頭のパワーだ。しかしこのひとの合邦が観られるとは。贅沢だね。時代だね。
 よく考えたら『達陀』含め日生坊主歌舞伎だったのか。松竹冬の僧侶まつり。
 蛇足ながら、尾上右近……観る者の「咳払いを呼ぶ声」だ。どうして高輪の家元は必ず役者やるのだろう。それも修行とはいえ…地芸一筋で十代二十代過ごすほうがいいと思うが。



【大詰庵室】 玉手の花道の出、もーーっともーーーっと妖気がほしい。私は昔、中村芝翫のこの「出」に魅了されて、歌舞伎にハマってしまったのだ。ここは「ひとり百鬼夜行」のような超越感と異形感がほしいところ。
 しかし「かかさん、開けて下さんせ」のセリフの辺りは見事。「きれいでこわい声」っていう感じ、出てたもの。
 そしてここの所作事から狂乱、最後の長説明までのくだりを「ものにする」ってのは、もんんんんのすごく難しいんだろうなあ。シュールでアナーキーで支離滅裂で長丁場で…「このひとクスリでもやってんじゃないか」と思わせたらたいしたもんだよね。ここ、現代的な演劇感覚だとやるほうも観るほうも飲み込みにくい、存外「テクニカル」なところなんじゃないだろうか。緻密な計算とそれを本番では忘れちゃうかのようなテンションの両立というか。
 そしてこの玉手狂乱を脇で聞いてる俊徳と姫も難しいよなあ。玉手の長台詞のところ、二人の集中力が切れると何もしなくとも観る側には分かる。主役の芝居の邪魔になる。でもこーいう「ジッと座ってるサブ」ってやればやるほど将来の「貯金」になるんだろうね。「資産活用」するかしないかはさておき。

 あとそうそう、尾上松緑。いいねえ! すっきりしてて、人柄のいい感じがにじみ出て。こんな役者さんになるとは。いつかこのひとの次郎左衛門、『籠釣瓶』が観てみたい。殺しのとこはまだ想像できないけど、縁切りのとこ、いいだろうな。妖刀うんぬんじゃなく、心中性が強まるんじゃないだろうか。
 あたらめて大儀な芝居なんだなあ、と認識。そして驚いたんだけど、玉手の最後、息も絶え絶えのあたり、顔が祖父・梅幸さんに見えてきてしかたなかった。よく似てるわ。このひとは母親似だと思っていたけれど(言うまでもなく富司純子)、おじいさんにもグングン似てきているような。



【『達陀』】最後に舞踊。私、つれない言い方ですが……この踊りの「ニーズ」、分からず。物語と舞踊がさして交差してないように思えて。発表当時はモダンで目新しかったのかもしれないけれど。